「花郁悠紀子と能」 波津彬子×東雅夫 at 金沢能楽美術館

平成25年6月9日、金沢能楽美術館で行われた「花郁悠紀子と能」関連トークイベントに参加しました。波津彬子さんと東雅夫さんの対談は、盛りだくさんの内容でした。能楽美術館でマンガ原稿を展示するのはとても珍しいとのこと。能のお面や装束に囲まれて原稿を飾ってもらって、姉も喜んでいるでしょうと波津さんがおっしゃっていました。

花郁さんがどういう経緯でまんが家になったのか、どんな本を好んで読んでいたのか、波津さんとの姉妹の関係はどんなものだったのか。花郁さんが能に興味を持ったきっかけはなんだったのか、時系列で話をしながら、あとから思えばいろいろと興味深いテーマがたくさん取り上げられていました。マンガについての話をしながらも、能楽美術館の企画から外れない進行が素晴らしかったです。

能との関係についていえば、花郁さんは金沢に住んでいる頃は、そんなに見たことはないんじゃないだろうかとのこと。ではどうして、能に関する作品を描こうと思ったのか。東さんはイベントの前に、波津さんのお宅へ行って、花郁さんの蔵書を見てきたのだそうです。そこには彼女がリアルタイムで読んでいた、日本の幻想文学のハードカバーの初版本が並んでいたそうです。澁澤、中井、秦、塚本…デビュー前の、経済的にゆとりのない時でも、そういう本を買っていたとのこと。同時期に幻想文学に触発されて作品を書いた人として山尾悠子さんの名前があがっていました。当時の幻想文学の作品の中に、能をテーマに現実と幻想が交錯する作品があって、そういうものから能への興味が芽生えたのではないかとのことでした。ネットもビデオもない頃、資料を集めることが今ほど簡単ではなく、中世の装束を知るために大河ドラマを見て、テレビの画面を写真に撮ったりしたそうです。謡曲を聞くには、ソノシートつきの能楽の本を買って、ソノシートを聞いたのだそうです。(会場でその音源を聞かせてもらいました。)

花郁さんは、描きたい話がたくさんあって、もらえるページ数ではいつも足りなくて、ページ数内に収めるために構成を考えて描いていたそうです。アシスタント時代に萩尾さんの手伝いをしていた時に、萩尾さんの構成を見ていたことも影響していたでしょう。もっとたくさんの話ともっとたくさんのエピソードを書きたかっただろうとのこと。

姉妹関係について。花郁さんと波津さんは五歳の年の差があったので、小さい頃は相手にならないくらい離れている感じだったそうです。でも、一番一緒にいる時間が長かったとのこと。マンガはお姉さんが買ってくる本がそのへんにあるのをひろって読む感じ。その頃は同居しているおばがいてマンガを買ってくれて、それを読んでいたとのこと。

 

「もし姉が生きていたら、私は漫画家にならなかったでしょう。でも、姉が亡くなったから漫画家になったわけではありません。そばにいたので影響を受けているし、重ねて見る人もいるけれど、作風は全く違う。姉は大河ドラマが好きだし、私は短編が好き。姉はSFと幻想小説が好きだし、私はミステリと怪奇小説が好き。姉は作品を描いていれば幸せな人でした。」

 

以下、対談を聞きながら取ったメモを元に、書き起こしてみました。抜けがあるし語尾も違う不完全なものです。対話形式で書いていますが、波津さんと東さんの発言が混ざっているところもあるかもしれません。参考程度にお読みください。

(波:波津さん 東:東さん 敬称略)

 

〈特別企画〉「夭折の少女漫画家 花郁悠紀子と能」関連トークイベント

      波津彬子(漫画家・実妹)× 東雅夫(文芸評論家)

 

波:姉は金沢で生まれ育って、高校卒業後、地元で会社勤めをしていました。高校時代から仲間と同人誌を作っていて、肉筆回覧誌ってわかります?今みたいにコピーもないので、原画をとじたものです。印刷といえば、ガリ版刷りか、建築関係の青いコピーくらいしかありませんでした。

東:それは文章の同人誌もそうでしたね。

波:その頃、萩尾先生と竹宮先生がデビューされて、大島先生や山岸先生たちも含めて「24年組」と呼ばれていました。その頃は今よりもおおらかで、姉が萩尾先生にファンレターを出したら、遊びにいらっしゃいということになって、夏休みに遊びに行きました。私は姉とは五才離れているので、一緒に行きませんでしたけれど。そんなふうな交流から、萩尾先生が仲間との同居をやめて、東京に家を借りることになったときに、手伝いに来ないかという話になったんです。姉は19才で会社をやめて、住み込みでアシスタントを始めました。それから亡くなるまでずっと東京に住んでいました。

波:住み込みで家のことをしながらアシスタントをするのは大変で、世間知らずだった姉は一年でくたびれてしまいました。それでデビュー前にアパートでひとり暮らしを始めました。ひばりが丘の女性だけのアパートで、近くに山岸先生がお住まいでした。時々手伝いに行ったりしていました。一年くらいそこで投稿作を描いていました。

東:初期作品には萩尾先生の影響がありましたね。アナスタシアとか。

波:そうですね、金沢時代の姉が読んでいた本もベースになっています。「赤毛のアン」や、SFで、バローズの「火星シリーズ」が好きでした。

東:アメリカのSFが日本に入ってきた頃ですね。

波:萩尾先生はブラッドベリやファンタジーがお好きでした。

東:どの作品の頃に手伝っておられたんですか?

波:「トーマの心臓」のはじめの頃です。

東:高校生の頃、僕も萩尾先生の「ポーの一族」や、竹宮先生の一連の作品から、少女マンガを読むようになりました。男性が少女マンガを読むようになったのは、24年組がきっかけでしたね。

波:読書会でバラの紅茶を飲むような人たちもいて、「あの人たちなにやってるの!」(笑)って思っていました。それまでは、少女マンガは、花が飛ぶし目が大きいしとか言われていたんですけれど。

東:24年組がその流れを変えたんですね。当時はマガジン、サンデーの全盛期で、原作付きの怪奇まんがなんかも載っていたんですけれど、そのうち「巨人の星」や「あしたのジョー」みたいなジャンプ的なものに移行していきました。ジャンプ的なものになじめなかった読者が24年組を読んで紅茶を飲んで、「おいで、ひとりではさみしすぎる」とか言ってたんですね。(会場爆笑)

波:私はマンガ家になりたいとは思わなかったけれど、OLにはなりたくなかったので、高校のデザイン科に進んで、そこで絵画の基礎を学びました。姉は原稿は東京で描いていましたが、お盆の帰省の際に、原稿を持って帰ってきて、手伝いをさせられました。バイト感覚で。夏休みに東京に手伝いに行ったこともありました。

東:それでマンガ家になろうとは思わなかったんですか?

波:だって、親が嫌がるでしょう?ふたりともマンガ家になったら。私は普通にまっとうに生きようと思っていました。年は離れていたけれど姉のことが心配でした。社会生活がつらい、雑事に時間が取られるのが嫌いな人でしたから。マンガを描いていれば幸せなひとでした。

東:どんな人でしたか?

波:まじめに生活していました。ひとりで暮らして税金も払って。ひとり暮らしは雑務が多くて、確定申告とかそういうのが大変そうでした。デビュー前は金銭的にも苦しかったようです。一年でデビューできたんですけれど。

東:作品リストを見ると、デビュー後は順調に仕事をしていますね。

波:その頃の編集は、デビューしたあとは面倒をみてくれました。短編のよみきりを描かせて、だんだんページ数を増やして、それから連載をやらせるというように、ステップアップしていきます。78年ころには、精神的にもゆとりができていたようです。

東:後半は日本情緒のある作品がありますが、初期は海外ものが多いですね。

波:デビューの頃は、「赤毛のアン」とSFファンタジーが好きでしたね。

東:どんなマンガを読まれていましたか?

波:少女コミックがまだなかった頃は、マーガレット派でした。マーガレット、別冊マーガレット、りぼんを読んでいました。初期のわたなべまさこ先生や水野英子先生の連載が載っていた頃です。少女フレンドはちょっと合わないかなということで、マーガレット派でした。

波:姉が高校生の頃、萩尾先生がデビューされました。最初はなかよしで、次に少女コミックで読み切りを描かれて。少女コミックは当時マニアックな作品が載る雑誌でしたね。やがて「ポーの一族」が始まります。

東:少年マンガはどうですか?

波:そんなに読んでいませんでした。その頃、手塚先生と石森先生が少女マンガを描かれていて、石森先生の作品が好きだったようです。「サイボーグ009」はどちらかというと少女まんがっぽかったですね。

東:実はこのイベントの前に、波津先生のお宅におじゃまして、花郁先生の蔵書を拝見しました。その中に石森章太郎の初期作品集がありました。

波:「ジュン」という作品が好きだったんです。ご存じの方いらっしゃるでしょうか。全編セリフのない抒情的な作品で、ハードカバーの限定本で持っていました。そういうのが好きだったようです。私は009や、あしたのジョーが好きでしたけれど。

東:妹としてはいかがでしたか?

波:姉の読んでいる本を、そのへんにあるのをひろって読んでいました。親としては本は一冊あればじゅうぶんだと思っていたようで。

東:僕の場合はちょっと特殊ですけれど、大きな家の離れに間借りしていたんですね、そこの大家のおばあさんのところに、母屋に別の親戚一家が住んでいて、遊びに行くとそこのお兄ちゃんたちが読んだサンデーやらマガジンの雑誌がつんである部屋があるんです。それを読んでいました。

波:次女はマンガに接するのが早いんですよ。当時、家にはおばが同居していて、姉はおばからマンガを与えられていました。親は学年誌しか買わないですけれど、おばはマーガレットを買ってくれました。

東:一緒に遊ぶことはありましたか?

波:年が離れていますから、向こうはめんどくさいと思っていたかもしれません。でも、共働きの家だったので、一番一緒にいました。使い走りをさせられていましたよ。それで、今でも補佐をするほうが上手です。お金をわたされて、マーガレットを買ってこいって言われるんです。でも、姉が読んでから読むの。

東:けんかをしたことはありますか?

波:高校生と小学生ですからね。反抗するような感じじゃないんです。あまりけんかはしませんでした。高校生の頃、東京に遊びに行っても、かまってくれるわけでもないんです。ひとりで銀座へ行って、洋書店を見つけたりしました。

東:イエナ書店ですね。

波:デビュー前は一間の小さいアパートにこもって、投稿作を描いていました。近所に山岸先生がいて、佐藤史生先生もひばりが丘にいたので、姉をかまってくれていました。

波:「アラベスク」の頃、山岸先生にクリスマスパーティーに呼んでいただいたことがありました。編集がケーキを何個か持ってきて(バタークリームのケーキ)。編集が接待するのを初めて見ました。高校生の頃、先生方にお会いして、まだ子供だったので、親切にしていただきました。今でもよくしていただいています。いろいろなパーティーで萩尾先生にお会いすると、いつも隣が空いてるんです。恐れおおくて誰も座れないんです(笑)。だから私が隣に座っちゃいます。先生こんにちはーって言って。

東:投稿作の傾向はどんなでしたか?

波:デビュー作のような「赤毛のアン」とかファンタジーのハートフルな作品でした。

波:白泉社ができたころ、「花とゆめ」が創刊されました。(今では慣れましたけれど、ネーミングに驚きました。)新雑誌はデビューのねらい目なんです。投稿したけれどだめで、高校のときの仲間がデビューして、ちょっと悩んだ時期もありました。

波:それから秋田書店のプリンセスに応募しました。そして「ビバプリンセス」というB5の分厚い雑誌に作品が載りました。デビューしてからは順調でした。

東:デビュー後の仕事ぶりは?

波:描きたい話が山のようにあった人でした。いつもページが足りないと言っていました。イマジネーションが大きくて、ページ内に収めるのに苦労していました。もっと長い話でもっとたくさんのエピソードがあったんです。それをどう構成するか、悩んでいました。萩尾先生は、構成力に優れた方ですから、アシスタント時代にたたきこまれていたと思います。

東:後期の作品は、本格的な話が印象に残っています。「不死の花」は現代と中世が交錯して、伝奇的要素もあれば、耽美的要素もあり、いろいろな要素が混ざっています。

波:ページが足りなかったんです。倍以上のページが必要でした。月刊誌では連載をやれなかったので、読みきりでどれだけページ数をもらえるかでした。

東:「カルキのくる日」は前後編でしたね。

波:これでもページが足りませんでした。合わせて80ページでしたが。

東:編集部の期待が大きかったのでは?

波:そうですね。ずっと同じ担当の方がついてました。

東:読者の方はどうですか?

波:(会場をみわたして笑いながら)
同世代の人たち。ロマン派という印象でしょうか。三十三回忌を過ぎてもいまだにおぼえてもらっていてありがたいです。ただ、私や他のマンガ家さんが出席しているイベントに、姉のファンの方が来られて、花郁についての質問をされることがあります。もう亡くなってから時間もたっているので、知らない方も多い中で、ちょっと雰囲気が微妙になることがあります。姉のことを思ってくださるファンの方が悪く思われるのは残念なので、こういう機会をいただけてありがたく思っています。思う存分語りつくすことができますから。

波:姉が亡くなったときに、社会的に認知されていなかったというか、小さいお知らせ一個だったんです。そのあと、単行本に作品をまとめていただいて、増刊号に作品を再録してもらったけれど、特別に追悼とかはなかった。それで気持ちのもっていきようがなかったのかなと思います。活動期間が短かったし、私も亡くなった前後はばたばたしていましたし。ここまで思ってくださるファンがいることはありがたいことです。能楽美術館という場所で原画の展示なんてありえないことですから。

東:能楽美術館に原画を置いて違和感がないのがすごいですよ。

東:今回の展示「花の風姿」では「藤」について展示しています。「藤」は謡曲としてはマイナーな曲です。(富山県氷見市の田子の浦が舞台で、旅の僧が藤の木の下で藤の精に出会う話です。)あわあわとしてアクションのない作品ですが、これに着目されたんですね。

東:蔵書の中に、ソノシートのついた謡曲全集がありました。ちょっと聞いてみましょう。

(ソノシートからとった音源をしばらく聞く)

波:姉は金沢出身だけれど、金沢時代は能はほとんど見ませんでした。せいぜい中学の能楽教室くらい。高校の頃はSFにはまっていて、東京へ行ったので、なぜ能に興味を持ったのか、そういうことを聞かされることはありませんでした。蔵書の一番大事にしている棚に日本の幻想文学のハードカバーがあるので、そのあたりからでしょうか。

東:(配布した資料の年表をみながら)花郁さんは1958年生まれ、ぼくは1954年でよっつ違いです。ほぼ同世代といえると思います。1958年には「ゴジラ」が公開されています。

波:怪獣ものは見てないですね。あれはなんていうんでしたっけ、埴輪の出てくる…

東:「大魔神」ですね。

波:そう、その「大魔神」は好きでした。でも、「ゴジラ」は銭湯に行くと天井からポスターがぶら下がっていましたね。

東:それ、もらってきて家にあります。毎日銭湯に通っていたから、ちょうだいって言ってもらったんです。

東:年表には主なできごとと、その年出版された幻想文学の本と、花郁先生の蔵書にあった本も入れてあります。1986年は、幻想文学や怪奇SFが盛り上がってきた頃でした。ちょうどその波と、花郁先生の活動が重なっています。

波:東京の萩尾先生のお宅で、マンガ仲間と情報交換をしていました。

東:本棚には1969年以降の本がありました。中井英夫の「幻想博物館」のハードカバーの初版がありました。

波:塚本邦雄の「紺青のわかれ」を読んでいました。塚本邦雄のハードカバーは高価で、経済的に余裕のないときは本がほしくて迷っていました。新宿の大きな本屋に出るのも時々だったから、今買わないと買えないかもしれない、と思って、思い切って買っていたようです。

波:小栗虫太郎夢野久作は本が出てから時間がたっていましたから、全集を古本で買うことができましたが、塚本邦雄中井英夫澁澤龍彦赤江瀑は新刊で欲しかったんです。

東:1975年に秦恒平の「秘色」という本が出て、その中に「清経入水」という短編が収録されています。これは能の「清経」をもとに、現代と能の世界が交錯する幻想小説ですが、このような本が影響を与えたのではないでしょうか。

波:このあたりの幻想文学から能に興味を持ったのか、金沢へ帰ったときに宝生流の能を見ていましたが、1回や2回では、能はわからないと思いますが…

東:実演を見るのも大事ですが、活字からも情報は得られると思いますよ。

波:謡の本が何冊かありました。

東:さきほど聞いたソノシートの本にコラムがあって、「藤」の解説が載っています。(読む)心のつかみどころなどが書かれています。

波:出版物もそんなにないし、ネットもない、ビデオもない。能を見るには現場へ行くしかない時代でした。

東:蔵書の中に大河内 俊輝 の「雪の能」という本があります。能についてのエッセイと小説の本ですが、この本の間にこんな写真がはさまっていました。(中世の装束を着た俳優の映ったテレビの画面を撮った写真)NHKの大河ドラマですね。室町時代の衣装です。

波:当時は時代物の衣装を調べるのは大変でした。今はいろいろといい資料がでていますが、衣装の構造がどうなっているかは、図版だけではわからないので、NHKの時代劇などをくいいるように見ていました。烏帽子の形とか。NHKなら時代考証も確かだろうと。この写真はたぶん松平健ですね。資料を集めて、マンガにだし始めるのは1978年の頃です。

東:同世代の小説家に山尾悠子さんがいます。ハヤカワのSFコンテストからデビューした人で、外国の幻想文学に通じるものがあると注目されました。中井英夫塚本邦雄、三島の「中世」の影響を受けて、当時の幻想文学ブームをリアルタイムで経験した人です。

波:作品を作るにあたっては熟成期間が必要で、いろいろな本を読んで調べて、78年から出していこうとしていました。「不死の花」「百の木々の花々」は三兄弟の話で、三つ目の弟の話の構想はありました。「菊花の便り」は菊滋童がモチーフになっています。資料に入れた図版は私が編集した同人誌に載ったものですが、「鬼花舞」という能をテーマにした作品の予告になっています。(配布資料に予告カットのコピー)

波:青焼コピーで作った同人誌で、予告編特集でしたが、私や他の仲間が絶対書かないような話を冗談で予告篇として描いているのに、姉だけは本気で描いていました。能楽師の兄弟の話でした。話は聞いてますけれど、言いませんよ?

波:ページに収まらない長いドラマを考える人でした。構想は聞いています。言いませんよ?だって本人が不本意でしょう。能をテーマにした作品をもっと書きたかったでしょう。

東:ほかにはどんな傾向の作品を考えておられましたか?

波:「私の夜啼鶯(ナイチンゲール)」のような19世紀から20世紀の時代ものを。デビュー作の頃は外国を舞台にしていても、場所とか時間を特定できないものでしたが、時代を調べて描くことをしたいようでした。日本のものも。

東:「不死の花」を覚えていたのは、いろいろなものをつめこんである話だからでした。

波:あの作品はタペストリーになっている絵を描きたかったものです。タペストリー、ご覧になりました?ここの美術館のウィンドウの中に飾ってあります。見た人が驚かれているようです。(藤若が藤の木から花のように下がっている絵)あの絵を大きくもってくるにはどう構成したらいいのか考えていました。

東:波津先生はお姉さんのこころざしを受け継ぐつもりはありませんか?

波:別のタイプの作風なんです。一緒にいたから画風や画面構成は似てるけれども、追求したいテーマは別です。姉が大河ドラマなら、私は短編が好き。自分で話を描くとき姉を意識しません。姉の蔵書は一冊も読んでいません。塚本、中井、秦は姉のサンクチュアリ。踏み込んじゃいけないと思っています。

東:三十三回忌も済んだことだし、踏み込んでみたらどうですか?

波:姉はSFと幻想小説、私はミステリと怪奇ものが好き。微妙な線引きがあるんです。構想は聞いたけれど、描きたいとは思わないです。読者としては面白く読むけれど、描き手としては違います。

東:マンガ家になったきっかけはお姉さんが亡くなったことでは?

波:違います。姉が亡くなる前、知り合いがマニア向けの雑誌の編集の手伝いをしていて、私に声をかけてくれたんです。商業誌ということを意識せずに、同人誌みたいなつもりで描いていました。それを描いた直後に姉が亡くなりました。

波:私はアシスタント技術を磨くためにも、自分も描かないと仲間になれないこともあって、描いていました。姉の描いているそばにいたので、影響を受けているし、後追いの印象がありますが。姉はマンガだけ描いて生きて行こうとしていたし、私はその補佐をしていこうと思っていました。「不死の花」あたりから手伝っていました。

東:どういうところを手伝っていたんですか?

波:背景の点描を描いてます。それと最初の場面のお堂を。


質問をいくつか。

★もっと花郁悠紀子さんの作品を見る機会をもてたらと思います。

波:京都のまんがミュージアムでダッシュ展というのがあるんですが、複製原画はとても精巧な作りで、そういうもので見る機会があると思います。

(質問待ちの雑談)

波:1979年に萩尾先生たちとヨーロッパ旅行に行って、いい経験をさせてもらいました。ぜいたくをしない人だったからよかったと思います。資料に入れた姉の写真は藤が写っていますが、「不死の花」のために藤を見に行くことはできなかったです。雑誌に掲載される前に原稿を描いているので、季節が違うんです。

★カルキのくる日でファンになったんですが、この作品だけアジア色が濃い気がしますが。

波:そんなに深い意味はないと思いますよ。

★花郁先生はどんな作品に影響を受けられたんでしょうか。

波:これまでお話したように、ベースにSF,ファンタジーや幻想文学がありました。

東:北杜夫や、金沢にゆかりの井上靖さんの本もありましたね。蔵書には揃いのカバーがかけられていて背表紙に手書きで書名が書いてあります。文庫のカバーが芳林堂や書泉グランデで、僕もよく通った本屋なのでなつかしかったです。


★「春秋姫」は金沢が舞台ですが?

波:あれはとても珍しい作品です。唯一金沢が舞台で、具体的な地名が出てくるのは珍しいです。でも、姉は金沢に思い入れのない人だったと思います。長生きしていればまた違ったかもしれないけれど、地元のしがらみから逃れて、東京で自由にやるのが好きでしたから。家に戻ってきませんでした。東京の仕事場が家でした。

波:山岸先生が姉の幽霊を見たそうですが、「私の仕事場がとけちゃう」と言ったそうです。それは私が姉の住居を引き払った時のことで、姉は仕事場に気持ちを残していったんだなと思いました。いまでも金沢のお墓にファンの方がお花をくださるのですが、姉の心は向ヶ丘遊園の仕事場にあるのになと思います。

★学芸員あいさつ

学芸員:今日はお集まりいただきありがとうございました。私はマンガはあまり読まないのですが、花郁先生の藤若の絵に感動しました。ラファエロ前派に通じるものがあります。当館のウィンドウのタペストリーも大好評です。私はひそかに「さかさ藤若図」と名づけています。

波:三十三回忌にこんな立派な美術館で、お能の装束と一緒に原稿を飾っていただけて、めったにないことと、姉も草場の陰から喜んでいると思います。ありがとうございました。

学芸員:御帰りのさいにはぜひ「さかさ藤若図」をご覧になってください。どうもありがとうございました。


注1:作品リストによると、能楽に関する作品が登場するのは1979年ですが、対談中は1978年と言われていたので、そのままにしてあります。

注2:質問の時に、私も質問しようと思って浮き足立っていたので、ちゃんとメモを取れませんでした。この部分はだめだめです。結局、質問はしませんでした。「春秋姫におふたりを重ねるファンもいると思いますが、どう思われますか?」というものと、「波津さんがまんが家としてやっていこうと決心されたのはいつですか?」という質問をしたかったのですが、前者は対談中に答えが出ていると思いました。